昭和43年6月15日 夜の御理解  【入力者:岡村和一郎】


 ただ今のご祈念にかかる前に、えー末永さんからお届けがあった。うー先ほど、伊万里の竹内先生から電話がかかった。井上さんという、そのご信者さんが手術をされた。そして、尿が出ないから、たいへん苦しんでおられるから、どうぞおかげ頂きますように、ということであった。
 そして、すぐその後にその、その、(末永?)先生がね、お届けをされてから、竹内先生から電話がかかってきて、井上さんが、ガスが出らんでたいへん苦しんでおられるから、ね、おかしいなことじゃないよ。まだもう、人間はガスが出らなかっただけでも命がなくなるわけです。ね。
 だから、たいへんその、ガスが、手術の後にガスが出らないのは、あー、手術が順調にいってない証拠です。ガスが出たら、もう立派に手術がでけておるという種類だから、たいへんお礼を申し上げる、皆さんでも、ガスが出たらお礼を申し上げる。ね。

 もう大小便でも、ほんとに出らして頂くということ、もうこんなに有り難いことはない。尿が出らんでも、たいへんな死ぬほどの苦しみや、ほんとにもし出なかったら死んでしまう。ガスでも出らなかったら、(何がおかしいかね?)(笑)お母さん達まで笑いよるですね。
 ほんとにそうですよ。でもう、あっガスが出たらね、ほんとにお礼申し上げなきゃいかん。ほんとですよ。それをほんとにそういうふうにね、純真に純粋に頂くということが信心ですよ。ね。もういっちょ(?)と出んなら(笑)、私どももいよいよ有り難いことになるですね。
 出そうともなら出らんなら、こんなやっぱ苦しいことはなかろう。けれども、私は思うんですね。あら、先ほど末永さんは尿が出らんて言うた。あのー、(?)先生はガスと言われた。それを煎じ詰めることはいらないと思う。問題は井上さんが苦しんでおられるから、楽になるようにという、おかげを頂きさえすればよいと思うのですよね、私は。
 だから、私はそういうところに、非常にこの、理屈っぽくない、私がおかげ頂くのは、だいたいそういうことです。もう病気をしてから、医者がこう言いました、ああ言いましたって私説明されるけれども、私医者じゃないから説明されても分からない。
 問題は病気の名前は何でもいい。問題は神様のおかげで、ね、全快のおかげを頂き、痛み、痛んでおるのが痛まんで、苦しまんで済むおかげを頂きゃそれでいいのです。

 あの、おー今日誰かねぇ、あのーそこの僕んところのおじいちゃんだったかね、あ尿、あのー誰だったかね、確かそうだったと思うのが、あのー、お母さんがお願いに来ますと、
おじいちゃんが尿が出らないので、尿、小便づまりで、もうたいへんな苦しみだったらしい。医者ももうお年寄りのことだから、あのー手術はできないと。もう(?)から、それからおかげで(楽?)にいけるようになったと(?)できたらね。
 問題はそのおかげ頂きさえすりゃいいのです。ね。それにはね、もうおかげ頂きさえすればいいと、そこにはね、おかげを頂く元には、結局はあの、純真な信心ということ。純真なお取次ということ。ね。
 そりゃ、御教えを頂きますと、(?)教学的に、また、もーほんとにむつかしい御理解はもう諄々として説く、説いても説いても分からんようにむつかしいこともあるけれども、そういうことも分からして頂いても、結局はね、純粋になる、人間が純粋になるために、そういうむつかしい教学も、御教えも頂くのです。
 そういう意味で、んなら今晩(?)たくさん集まっているけれど、ね、いわゆる、あの童心という、ね、子供心というものは純真なんです。だから、子供心の、ね、この願いというものはね、神様がずーーっと聞き届けてくださる。それが我情我欲でなかったら、純粋なものであったら。

 (?)ご祈念がちょっと遅れましたのはね、もうテレビを見ておった。『穢れなき悪戯』という、あのー宗教映画である。もう見ておったら、もーうほんとに心が清まるような映画であった。もう久しぶりにああいう映画を見た。
 あーもー斬ったり刻んだりといったようなのじゃなくてね、ほんとにあの、おー映画を見るでも、お書物を読むでも、やはり心が清まるように。教会に通うて来るというこは、いつのまにか(今日こうして?)心が清まる。そして、その純粋な、純粋な心が、いよいよ、純粋に清められていくというところに信心があるのだけれどね。
 そのあのー、映画の、おー、映画の筋がね、ちょっと簡単に言うと、んー、教会の門の前に捨ててあった捨て子をね、十人のお坊さん達が育てられる。そして、その子供が、あー、(荷物?)になった時にね、あることから、(二階?)の上に、あのキリスト教の上には、キリストの、あの、おー、(また?)十字架に掛けられたじゅう、あの、おー、像が祀ってあるんだね。それはあの、屋上に祀ってある。
 だから子供には、あそこは怖いものがおるところだと。もう怖い(?)食べてしまうから、けっして上っちゃならんと言われてあるところをね、やはり、行っちゃならん、上っちゃならんというと、行きたい。ね。
 それがある時上ってみると、なるほど、実に、えーびっくりする、するようなその、まあ陰惨なね、こう、えーキリスト様が十字架に掛かって、(かずき?)にあってござる、もう像に会うからもうびっくりして、そのー下りてくるけどもね、また二度目に参った時には、もう、おー痩せこけてござる、そのキリスト様を見てから、きっとね、ひもじいんだろう、というてそれからもう毎日その、屋上にこっそりとね、食べ物を運んでやったり、ブドウ酒を運んでやったりする。それをね、そのキリストさ、様がね、もう全部受けられるという奇跡的な映画だった。
 ね、子供の持って来たものに喜んで受けられる。子供の持って来たブドウ酒を喜んで頂かれる。やはり毎日、そのー、(しょっぱい?)物が少なくなるもんですから、不思議に思うて、ある時お坊さんがつけて上ると、その子供がイエス様とお話をしておる、キリスト様とお話をしておる。
 そしてその、おーキリスト様の膝に、いー、寄りかかってスヤスヤ眠っておる姿に、十人のぼんさん達が、もうびっくりしてですね、そのーおー、神様な偉大な働きというか、ほんとに子供の純真な心が神様を動かしたいうことが、もう村中に知れ渡った。
 それからは、村の人達がたいへん、そのーおー、チュッ、えー布教の邪魔というかね、いわば、その教会を立ち退かせようというようなその、働きすらあった村の人達がぜーんぶ、その教会にお参りをするようになって、それが今でも、何年、えー何月何日にはね、そういう奇跡が起こった、んー、少年の、おー(なんかの?)お祭りの日があるというような映画であった。ね。

 というなの、これなんかでも確かに、その小さい子供の純粋さをね、神様がお受けになった。じゃあそういう奇跡、それはただ物語ではなく、ほんとにそういうことがあったんだと信じるね。うん。
 それを信ずるということが、純粋な心がなからなければ信じられない。ね。「先生あんなこと言いなさるけれども」と、もう「けれども」つけたら、人間の幸せにはなれない。信心によって幸せなことはでけない。それを純真、素直に「あはあ!そうか」とこう、それを素直に頂くというところに、人間のほんとの救われというかね、助かりというのがあるのです。
 ですから、どんなにむつかしい信心の勉強を致しましても、結局結論は、純粋になれ、素直になれ、ということを教えてあるのです。ね。

 ね、ですから、私あのお取次さして頂くでも、まあ、ね。尿が出らんと一人はお届けをされた。一人はガスが出らんてお届けされた。「(?)分からにゃ。神様に(?)いきなりそげなことでけん」というようなじゃなくてです、問題はそれによって苦しんでおられるのだから、どうぞ、その苦しみが楽になるように願えば、もうそれでいいのだから。
 (ガスたれようが尿だれ?)問題は構わんのだ。楽になれさえすればいい。病名なんか分からんでもいい。
 ね、そういう例えば純粋さをね、私の取次ぎ(して?)頂くことを、神様が受けてくださったと、(?)信じます。
 信心は結局、どのように信心のけいこをさして頂いても、結局、素直になるけいこ、純粋になるけいこ、と私は思うですね。どうぞ。